はじめに
数年前まで、量子コンピュータのニュースは「◯◯社が△△量子ビットを達成」という、数の競争が主役でした。ところが2026年の今、業界の関心は「量子ビットが何個あるか」から、「そのうち何個が信頼して使えるか」——すなわち誤り訂正の質へと移っています。
たとえるなら、そろばんの珠を1万個並べても、一つひとつが勝手にズレるなら計算にならない、という話です。量子ビットは非常に繊細で、放っておくとすぐ誤ります。だから「数を増やす」だけでは足りず、「誤っても直せる」仕組みが要る。この記事では、その転換を Google(Willow)と IBM(誤り耐性ロードマップ)を軸に、非専門のエンジニアにも腑に落ちる形で整理します。
本記事は 2026年7月28日時点の Google・IBM の公式発表に基づきます。実現時期(IBM の誤り耐性機 2029年など)はすべて「目標=予測」であり、確定した事実ではありません。ベンチマーク的な主張や優劣は各社の公称として帰属し、断定を避けます。数値・時期は変わりうるので、時点を添えて読んでください。
この記事でわかること:
- なぜ「量子ビットの数」だけでは足りないのか
- 物理量子ビットを束ねて「論理量子ビット」を作る、誤り訂正の考え方
- Google Willow が示した「しきい値を割る」実証(事実)
- IBM の誤り耐性ロードマップ(目標)と、今どこにいるのか
🎯 1. なぜ「量から質」へ転換したのか
量子ビット(qubit)は、0と1を重ね合わせられる計算の最小単位です。ところが現実の量子ビットはノイズだらけで、ほんの一瞬で状態が崩れます。ここが古典的なビット(0か1で安定)と決定的に違うところです。
問題は、ただ数を増やすと誤りも増えるという点です。1万個の量子ビットがあっても、各々が頻繁に誤るなら、計算は途中で壊れてしまう。だから「何個あるか(量)」より、「誤りをどれだけ抑えられるか(質)」が本質的な指標になりました。これが「量から質へ」の中身です。
物理量子ビットは、実際のハードウェア上の1個の量子ビット。ノイズに弱く、単体では信頼できません。 そこで多数の物理量子ビットを束ね、誤りを検出・訂正し合わせて、あたかも1個の高品質な量子ビットのように振る舞わせます。これが論理量子ビットです。いまは論理1個をつくるのに物理が数百個必要なほど「割に合わない」段階で、この比率(オーバーヘッド)をどう下げるかが競争の焦点です。
🧩 2. 誤り訂正と論理量子ビット——束ねて質を上げる
「多数の物理量子ビットを束ねて、1個の丈夫な論理量子ビットにする」——この関係を図にすると、こうなります。
肝は、計算中の量子ビットを直接のぞき見しなくても誤りを見つけられる点にあります。量子は観測すると状態が壊れてしまうため、代わりに「見張り役」の量子ビット(補助量子ビット)を使い、誤りの兆候(シンドローム)だけを読み取って訂正します。
量子誤り訂正(QEC)は、冗長な量子ビットを使って誤りを検出・訂正する技術です。 表面符号(surface code)は、物理量子ビットを2次元の格子状に並べる、最もよく研究された方式。Google が使っています。 符号距離(code distance)は、その格子の大きさの尺度。距離を大きく(格子を大きく)するほど、訂正できる誤りが増えます。
ここで決定的に重要なのが、しきい値という考え方です。
物理量子ビットの誤り率が、ある臨界値(しきい値)より下にあれば、格子を大きくするほど論理的な誤りが指数的に減っていく——という定理です。逆にしきい値より上だと、増やすほど誤りが悪化してしまう。つまり「しきい値を割れるか」が、誤り訂正が役に立つか害になるかの分かれ目になります。1990年代から約30年、ここを実機で越えられずにいました。
🔵 3. Google Willow——しきい値を実機で割った
その約30年の壁を越えたのが、Google の量子チップ Willow です。2024年12月9日、Google は Willow で「しきい値を割る」誤り訂正を実証したと発表しました(Google Research)。
具体的には、表面符号の距離を 3 → 5 → 7 と大きくするたびに、論理エラー率が約2.14分の1(およそ半分)に減っていくことを示しました。距離7の論理量子ビットは、構成している最良の物理量子ビットよりも誤りにくく(長寿命に)なった——これが「量から質へ」を実機で裏づけた瞬間です。
「量子ビットを増やすほど良くなる」方向に、初めて実機が入りました。これまでは増やすほど誤りが積み上がっていたのが、増やすほど(束ねるほど)論理的な品質が上がる側へ回った、ということです。Google はこれを「誤り訂正されたビットが、大きくするほど指数的に良くなる初めてのプロセッサ」と表現しています。
さらに 2025年10月22日、Google は同じ Willow(105量子ビット)で「検証可能な量子優位(verifiable quantum advantage)」を初めて実証したと主張しています(Quantum Echoes と呼ぶアルゴリズム。いずれも Google 公称)。これは誤り訂正そのものではありませんが、「質」を高めたハードで古典コンピュータには手が届かない計算を、確かめられる形で回したという位置づけです。
🟣 4. IBM の誤り耐性ロードマップ——qLDPC で数を減らす
一方、IBM は誤り耐性(フォールトトレラント)機の実現計画を前面に出しています。2025年6月10日、IBM は「世界初の大規模誤り耐性量子コンピュータを、ニューヨーク州ポキプシーの新データセンターに建設する道筋を示した」と発表しました(IBM Newsroom)。
IBM の鍵は qLDPC という誤り訂正符号です。
qLDPC(量子低密度パリティ検査)符号は、表面符号とは別系統の誤り訂正符号です。IBM は、これにより論理1個あたりに必要な物理量子ビットを、他の主要な符号に比べ約90%削減できると説明しています(IBM 公称)。前述の「割に合わない比率(オーバーヘッド)」を大きく下げにいく、という戦略です。
IBM の計画は、中間機を段階的に出しながら本命へ進む形です。年号はいずれも目標(expected)である点に注意してください。
本命の IBM Quantum Starling は、2029年に200個の論理量子ビットで1億回の量子演算を実行することを目標としています(IBM 公称。その先には論理2000・演算10億回の Blue Jay 構想も)。Google が「質は上げられる」を実機で示したのに対し、IBM は「その質を、実用規模までどう安く積み上げるか」に軸足を置いている、と読むと両者の違いが見えてきます。
Google(表面符号で below threshold を実証)と IBM(qLDPC でオーバーヘッド削減を狙う)は、アプローチが異なり、目指す段階も違います。どちらが「勝ち」と断定できる横並びの結果はありません。加えて、IBM の Nighthawk による2026年内の量子優位実証など、各社が掲げる時期は目標であり、前後しうる点も同じです。
📊 5. 今どこにいて、いつ何が来るのか
「もう実用の量子コンピュータができた」わけではありません。現状と目標を切り分けます。
| 観点 | 現状(2026年時点の事実) | 目標/予測 |
|---|---|---|
| Google Willow | 105量子ビット。しきい値を割る誤り訂正を実証(2024年12月)。検証可能な量子優位を主張(2025年10月・公称) | 誤り耐性機の実現はこれから |
| IBM | qLDPC で物理量子ビットを約90%削減する路線を提示。中間機 Kookaburra(2026)等 | Starling=論理200・演算1億回(2029年・目標) |
| 物理→論理の比率 | 論理1個に物理が数百個必要(オーバーヘッドが大きい) | このオーバーヘッド削減が最大の課題 |
2029年などの年号は、各社が掲げるロードマップ上の目標です。量子ハードウェアは製造・較正が難しく、遅延も起こりえます。「2029年に誤り耐性機が確実に動く」ではなく、「うまくいけばその頃に」という幅で読むのが安全です。今はまだ、少数の論理量子ビットを高品質に作れるようになった、という段階です。
この「質を上げる」流れは、古典側でAIの計算資源を奪い合う生成AI三つ巴2026とは対照的です。片方は既存ハードを大量に回す競争、もう片方はまったく新しい計算基盤を、誤りと戦いながら立ち上げる競争。時間軸がまるで違います。研究の最前線で「確かめられる正しさ」が問われる点は、ヤコビアン予想の反例と検証で扱った「検証」の話とも通じます。
量子コンピュータは、筆者がまったく手を動かしていない領域です。実機に触れたことはなく、各社の優劣について判断できる立場にありません。ここは正直に保留します。
そのうえで、電子工作の側から読んで一つだけ強く腑に落ちたことがあります。「数を増やすと誤りも増える」から「束ねるほど良くなる」へ反転する一線が実機で越えられた、という話です。手元でアナログ回路を触っていると、素子を増やすほどノイズ源も増えるのが当たり前で、オシロで見る波形はたいてい足し算で汚くなっていきます。増やすほど質が上がる側に回れる領域が実在した、というのは感覚としてかなり異質でした。しきい値という言葉がこれほど重く扱われているのは、まさにそこが境目だからなのだと思います。
明日から自分の作業に効く話ではありません。ただ、こうした「ある一線を越えると挙動が反転する」種類の話は、分野が違っても後から効いてくることが多いので、筆者は2029年という年号より その一線がどこにあるか のほうを覚えておくつもりです。
✅ まとめ
- 量子コンピュータの競争軸は「量子ビットの数(量)」から「誤り訂正された論理量子ビットの質」へ移った
- 誤り訂正は、多数の物理量子ビットを束ねて1個の論理量子ビットにする。鍵は「しきい値を割る」こと
- Google Willow は2024年12月、しきい値を割る誤り訂正を実機で実証(距離を上げるほど誤りが指数的に減少)。2025年10月には検証可能な量子優位も主張(公称)
- IBM は qLDPC でオーバーヘッドを約90%削減する路線。誤り耐性機 Starling を2029年目標(論理200・演算1億回)
- 実現時期はすべて目標=予測。論理1個に物理が数百個要る現状で、実用的な誤り耐性機は数年先
よくある質問(FAQ)
Q. 量子ビットは多いほど良いのではないのですか? A. 数だけでは不十分です。量子ビットはノイズに弱く、単に増やすと誤りも増えます。信頼して使うには誤り訂正が必要で、いまは「何個あるか」より「誤りをどれだけ抑えられるか」が本質的な指標になっています。
Q. 「しきい値を割る」とはどういう意味ですか? A. 物理量子ビットの誤り率が臨界値(しきい値)より下にあると、格子を大きくするほど論理的な誤りが指数的に減るという性質が働きます。Google Willow は、この状態を実機で示しました。逆にしきい値より上だと、増やすほど悪化してしまいます。
Q. 論理量子ビットと物理量子ビットの違いは? A. 物理量子ビットは実機上の1個でノイズに弱い。それを多数束ねて誤り訂正し、1個の高品質な量子ビットのように振る舞わせたのが論理量子ビットです。現状は論理1個に物理が数百個必要で、この比率を下げるのが課題です。
Q. IBM の2029年という時期は確定ですか? A. いいえ、目標(ロードマップ上の予測)です。Starling は2029年に論理200・演算1億回を目指す計画ですが、量子ハードは製造・較正が難しく遅延もありえます。年号は幅を持って読んでください。
Q. GoogleとIBM、どちらが進んでいますか? A. 単純な優劣は付けられません。Google は表面符号でしきい値を割ったことを実証、IBM は qLDPC でオーバーヘッド削減を狙うロードマップと、アプローチも段階も異なります。横並びで比較できる公的な結果はありません。
参考
- Making quantum error correction work(Google Research)
- Google hardware is powering quantum breakthroughs(verifiable advantage)(Google)
- IBM Sets the Course to Build World’s First Large-Scale, Fault-Tolerant Quantum Computer(IBM Newsroom)
- IBM lays out clear path to fault-tolerant quantum computing(IBM Quantum Blog)